1901-1920

1901 - '10

この時代は新たな技術開発に伴う石油内燃機、自動車、飛行機の発明・そして相次いで世界各地で油田が発見され、各国で大規模な石油会社が設立され、やがて訪れる石油時代に布石が打たれていきます。
1800年代末期、横浜で貿易業を開始したサミュエル商会は1900年石油部門を独立させ、後年シェル石油となるライジングサン石油株式会社を設立し、照 明用の灯油、ロウソクの販路を拡大していきます。やがてシェル・トランスポートとして発展したサミュエル商会はロイヤル・ダッチと合併してロイヤル・ダッ チ/シェルとしてスタート、ライジングサン石油はシェルグループの日本の拠点として事業を展開していくことになります。
一方、国内では新潟県を中心とする日本海沿岸に油田が開発され、国産石油の生産が行なわれるなか、後年昭和石油の前身となる早山鉱油製造所、新津石油が設立されます。

1911 - '20

内燃機関、舶用ボイラー等の発達により、石油は灯火油から工業用燃料、動力を供給する主要なエネルギー、基礎生産財としての地位を確立していきます。殊に 第1次大戦の経験により、石油は国家の存亡を左右する重要軍事資材であることを証明することになります。第1次大戦は世界の石油産業にとって一大転機とな りました。
我が国では海軍が重油市場の最大の消費者としてその存在を高めていきます。そして軍の需要を受けて国産石油企業は再編を繰り返して企業規模の拡大をはかると共に、外国資本と提携してその進んだ技術を導入して生産性を高めていきます。
欧米に遅れてスタートした我が国の自動車普及は1918年には乗用車・トラック合わせて4500台を越え、ガソリン需要も徐々に増加していきます。ライジングサンのガソリンも、「赤貝印」、「黒貝印」のブランドのもと市場に販売されていきます。

1921 - 1940

1921 - '30

巨大な工業力と豊富な石油資源の裏付けのもと、1920年代初頭のアメリカは大量生産によって自動車の大衆化に成功し、早くも一家に1台のマイカー時代を 迎えています。我が国では輸入原油精製による燃料油の供給拡大と、大型内燃機関の国産技術が確立されていきます。反面、原油の供給を海外に仰がざるを得な いウイークポイントをアキレス腱として以降に残したとも言えます。
後年合併して昭和石油となる旭石油はライジングサン石油の西戸崎製油所を借り受け、原油の輸入・精製に着手します。
一方、ライジングサン石油は関東大震災後、横浜に新社屋を再建して陣容を拡充、各地にガソリンスタンドを設置するとともに、イギリスからタンクローリーを輸入して供給能力を向上させていきます。
1929年暗黒の木曜と呼ばれるニューヨークウォール街の株式大暴落に端を発した大恐慌は、大戦後の天文学的な賠償金とインフレに苦しむドイツの政情不安と共に世界に不気味な影を投げ掛けていくことになります。

1931 - '40

国際連盟を脱退した我が国は航空機を始めとする近代兵器の開発・生産に国力の多くを傾注していきます。後年トヨタ、日産、いすゞとなって戦後の我が国の モータリゼーションを主導する各自動車会社もこのような時期に創立されています。政府は官営八幡製鉄所を中心に財閥系各製鉄会社を合併、日本製鉄として発 足させると共に、石油業法を公布、業者に貯油を義務づけ、石油製品の管理を一段と強化します。
そして1937年、戦時統制3法の公布をもって戦時経済体制へ移行し、重要な産業に関して統制の強化が進みます。また国民総動員法、灯火管制規則、新聞用 紙制限令等国民の日々の暮らしを拘束する法令が重要産業統制令と共に公布、米、石油、石炭が配給制となり、ついには白米禁止令が実施されます。
一方、ファシズムが勢力を拡大するヨーロッパでは、ドイツにヒトラー独裁政権が誕生して周辺諸国への侵攻を開始。1939年、第2次世界大戦へと突入していきます

1941 - 1960

1941 - '50

日中戦争の拡大とともに、アメリカは石油製品を全面的に禁輸。続いてアメリカ、イギリス、オランダによる対日資産凍結が実施されわが国は益々国際的に孤立 していきます。わが国政府は石油産業を始めとする基幹産業の国策化を推進、「石油の一滴血の一滴」の合言葉のもと、民間の石油製品の消費を厳しく統制、非 常時に対する準備が推進される中、1941年12月の太平洋戦争開戦となります。
開戦とともにライジングサン石油は資産を敵国財産管理下におかれ、会社は閉鎖されます。一方戦時体制を受けて早山・新津・旭の国産石油3社は合併、昭和石 油が誕生します。戦時下、連合軍の徹底的な空襲で製油所、油槽所も被爆・疎開などで、原油処理能力の3分の2が壊滅しました。
そして1945年、無条件降伏の敗戦。GHQによる厳しい統制政策のもと戦時体制の整理が進められます。閉鎖されたライジングサン石油は1947年、シェル石油と改称して営業を再開します。
昭和石油・シェルグループの資本協定を始めとして国産石油企業は海外石油資本との提携を進め、やがて到来する復興期のエネルギー基幹産業として布石を打っていきます。

1951 - '60

サンフランシスコでの対日講和条約の調印・発効、続いて国際通貨基金(IMF)加盟の承認。日本はようやく国際社会の一員として歩み始めることになりま す。エネルギー事情では占領末期からGHQによる石油諸規制・権限が順次撤廃・譲渡され、独立以降民間企業による海外原油・石油製品の輸入が始まります。 中東原油 の商業生産が軌道にのり始め、ヨーロッパで消費地精製方式が発展していくなか、40年代末期から進められた海外石油資本の提携も引き続き活発に行なわれ、 製油所の復興・再開・建設と、来るべき石油時代の地ならしが着々と進められます。
このような時代背景のもと、シェルグループと昭和石油とは数次にわたる資本提携協定を進め50%出資を決定、強固な協力関係を構築することになります。戦 争で被災した川崎、新潟製油所の再開とともに最新技術の導入により能力増強が進められます。また旧海軍四日市燃料廠跡地の払い下げを受け、昭和四日市石油 四日市製油所建設に着手、1958年の完成以降我が国のシェルグループそして昭和石油の重要な精製拠点として活躍していきます。

1961 - 1980

1961 - '70

燃料の主役は戦後も長きにわたって日本経済の復興を支えた石炭に替わって効率的な石油がその座につき、エネルギー革命が進みます。ちなみに当時の統計によ ると1960年代の10年間、その初頭を基準にすると国民総生産500%、鉱工業生産300%、そして燃料需要250%の指数を示し、高度成長期へ突き進 みます。1968年にはGNP(国民総生産)は1428億ドルに達し、西側世界でアメリカに次いで第2位に達しています。
所得の向上と共に庶民の夢3C、さなわちカラーテレビ、クーラー、そしてマイカーが普及の度合いを増していきます。1950年代後半以降、相次ぐ国民車、 大衆車の発売に端を発したモータリゼーションは、我が国初の本格的高速道路(名神・東名高速道)を始めとする道路網の整備と相まって急速に進展していきま す。従来ガソリンスタンドと呼ばれた給油所も、マイカーのお客様のサービスに主眼を置いた快適なサービスステーションとして見直されて行きますます。
一方、家庭生活でも電化製品に並んでプロパンガス(LPG)、精製された灯油等石油製品の普及により、快適・安全な給湯、暖房が広く行き渡ります。
このような需給関係を受けて当社の営業部門ではクラス・オブ・マーケット制が採用され、自動車燃料部門、工業部門、家庭部門等と活発な営業活動が展開されます。

1971 - '80

1970年代に入ると、アメリカの経済停滞打開のためのインフレ的刺激策に対応して各国が財政・金融を拡大してインフレ的経済浮揚策をはかります。このた め石油生産国はインフレにより輸入製品高騰とドル安による石油輸出価格の減価によって収入が著しく目減りします。このような状況下アラブ・イスラエルの第 4次中東戦争をきっかけに1973年10月アラブ石油輸出機構による原油の生産削減・禁輸措置により2ヶ月間に1バレル当たり3ドルから15ドル台まで原 油価格が急騰します。この第一次石油危機から6年後の1979年2月、イラン革命が第二次石油危機を引き起こし、原油価格は1980年に入って1バレル当 たり40ドル超にまで高騰します。高度成長をとげていたわが国は、原油輸入量の80%を中東に依存しており、しかもその70%以上が国際石油会社経由のた め、生産削減が即供給削減となり、安価で潤沢な石油供給からの政策転換を迫られます。省エネルギー、石油代替エネルギーの開発、有事に備えた原油の備蓄の 必要性が認識され、社内にも「備蓄対策委員会」が発足します。
60年代末期からシェルが三菱商事と共同で準備を始めたブルネイの天然ガスを液化して輸入する事業は、70年代に至って開始され、東京・大阪地区の電力・ガス会社に供給されます。これを契機に我が国の都市ガスは順次天然ガスに転換されていきます。

1981 - 1995

1981 - '90

2度の石油危機を乗り越え、石油業界は石油備蓄の確保・石油需要の頭打ち、規制緩和の進行・石油代替エネルギーの開発など大きな変換を迫られ、元売 会社の企業再編の必要性が叫ばれ始めます。わが国の石油産業黎明期から、重要な役割を果たしたシェル石油と昭和石油がより強固な企業基盤を築くために 1985年1月合併し、「昭和シェル石油」としてスタートします。その1年後には大協石油と丸善石油が合併してコスモ石油が発足、1990年代にかけて、 各元売間での製造・輸送面での業務提携・集約化が進められていきます。1986年には特定石油製品輸入暫定措置法が施行され、製品輸入自由化への方向性が 明確になり、過剰設備の削減・需要の軽質化への対応が推進されました。一方、経営悪化状態の給油所は事業範囲拡大が可能となり、わが社も事業の多角化に向 けて挑戦していきます。
80年代後半にかけてはガソリン生産割当てが廃止されるなど、石油業界に規制緩和への対応に新たな課題を課すことになります。

1991 - '95

80年代末期の東西冷戦終結を受けてヨーロッパではベルリンの壁崩壊・ドイツ統一に続いてソ連が消滅します。ヨーロッパ統一に向けての欧州連合設立により、1999年を目途に統一の通貨・市場の創造を目指すことになります。
わ が国では80年代末以降、急激な金融引き締め・総需要抑制政策のもと、株価15,000円割れ、地価の急落が進み、後の金融危機の禍根、金融機関の膨大な 不良債権を残したままさしものバブルも終焉し、一転して失われた10年と呼ばれる低迷の時代に入っていきます。またバブル終焉と軌を一にして、野党連合政 権を樹立し、政治の世界も一大転換期を迎えます。
1995年には阪神淡路大震災が発生、石油業界も大きな損害を被りながらも石油の供給に努力しました。電力・都市ガス等ライフラインが寸断シェルジャパン 筑波研究所される中、独立エネルギー拠点としてのSSの機能・位置づけが再認識された時でもあります。エネルギーの有効利用が環境政策とのリンケージのも と、ビジネスとして再認識されたのもこの時期です。
一方、依然として石油業界の過当競争は改善されず、石油事業の収益性は悪化の状態が長期化し、企業効率が急務となっていきます。精製能力・輸送・マンパワーなどあらゆる面での見直しが行われ、業務提携が一段と進行します。

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